2012年2月27日

哲ちゃんの思い出


昨夜遅く、友人であるミュージシャンの端山龍麿クンからメールを頂いた。
(それに気付いたのは半日以上経過してからだったが)
私とは旧知の間柄である京都の岸本哲クンの訃報を知らせるものだった。

1970年の蒸し暑い夏、私は京都の伏見に居た。
帯広畜産大学を卒業した糸川氏の実家に居候しながら、あちこちで歌っていたのだ。
(このアナーキーで変人呼ばわりされていた男とは、帯広の伝説的なレコード店サウンド・コーナーの店主である高村知魅氏を介して知り合った)
その糸川氏が「近所におもろい奴が居るで」と紹介してくれたのが岸本哲、哲ちゃんである。
早速彼の家を訪ね、よもやま話に花を咲かせた。
私が未だ知らなかったデイヴ・メイスンを教えてもらったのはその時だったし
その後、布谷文夫氏や大瀧詠一氏と何度か会うことができたのも彼のおかげだった。
(昨日ご紹介したロニー・レインの「エニイモア・フォー・エニイモア」も彼から教えてもらったものだ)

当時から様々な知識を持ち、交友関係も幅広かった彼の話はとても面白く
大瀧氏がデビュー前の遠藤賢司にトニー・ジョー・ホワイトを教えてしまい
自身がやろうと目論んでいたものを先に世に出されて悔しがっていたという逸話も
(裏情報通の)その哲ちゃんから聞いた話だった。

数年後、私よりも一足早く結婚した彼の家に女房と遊びに行ったとき
当時の価格で30万円ほどもしたTEACの4トラック・マルチの1インチテープ・デッキが居間においてあったのには驚かされた。今なら車が1台買える金額の代物だ。
音楽に精通していて、ギターのピッキングにも独特の哲学を持っていた男ではあるが
決してミュージシャンではなかった彼の家にレコーディングの機材が置かれていたのである。
私はそのとき、遊びでラフな録音をしたような記憶もあるが定かではないし
その機材がその後いったい何に使われたのかを知る由もない。
ただし、彼からはレコーディングのテクニックを幾つか教わった。
トラック数も少なくエフェクターも貧弱だった時代に、ピンポンでボーカルを何度かダブらせて
楽器に埋もれることなく艶と厚みのある声にする方法もそのひとつだ。
知識や理論、最新の情報など、とにかく物知りな男だったのだ。

そのさらに数年後、京都のジーンズメーカーHALFに入社した彼は東京転勤となる。
営業車に乗り東京中を走り回っていたが、ナイアガラ・レーベルを立ち上げた大瀧氏のお抱えドライバーとなったのもその頃だ。
ナイアガラに絡んでいたミュージシャンとも親交が深かったので、彼を知る者は多かった筈である。
彼を介して大瀧氏とは何度も顔を合わすことができた。
一番面白かったのは、銀座で催されたニッポン放送の使用済み機材の売却セール。
モノラルのオープンデッキがマウントされた放送局用の大型コンソールを大瀧氏は即決で購入したのだった。
ラジオ局用のモノラル機材を、大瀧氏が福生の45スタジオに届けさせたことは
彼の60年代ポップスへの思い入れを窺わせるのに十分だったからだ。

哲ちゃんは東京在住中に夫婦で私の家に泊りがけで遊びに来たこともあり、
(その頃の奥さんとはその後離縁したようだが)彼女もまた魅力のある面白い人だった。
大瀧氏が「ロング・バケーション」をリリースした当日に家に電話を掛けて来て
女房に「今一番聴きたい音楽がいっぱい詰まってる!」と嬉しそうに話していたそうだ。

離縁した、と書いたが、そのことを知ったのはわずか4年ほど前。
彼が娘のパソコンを使い(哲ちゃんはWEBには無関心だったようだ)
岸本哲の名前で検索していたら私のBlogがヒットしたらしく
懐かしくてメールを送って来たのだった。それも娘のアドレスで。
電話番号を伝えると、数日後携帯に電話が掛かって来た。
それが4年ほど前のこと。
最後に顔を合わせたのが1980年頃だろうから、実に30年ぶりくらいの会話だ。
京都で自転車屋を営みつつ「さらさ」というカフェを数軒経営していること、
私が知っている奥さんとは離婚したこと、などなどを聞かされた。
旧い銭湯を改造した「さらさ西陣」では時折ライブを催しているらしく
春になったら招待するから是非歌ってくれ、と楽しそうに言われもしたが
それきり彼からの連絡は途絶え、私も催促するようなことはしなかった。
私らのように長くて旧い付き合いをしている者同士ともなると
お互いに「そのうち何処かで会えるだろう」と、やたら気長になってしまうものなのだ。
現代のように携帯も無ければメールも無かった時代、
人と会うということは、綿密な計画を練るか偶然に頼るしかなかったのだから
その接点を見出すまでは私も彼も先を急ごうとは思っていなかったのだろう。
(実はその間に前述の端山龍麿クンが西陣でライブを行い、哲ちゃんと歓談中に私の名前が出て来て驚いたという逸話があり、その縁で訃報を知らせて来たのだった)

そう、先は急いでなかった。私も彼も。
今居る場所も、行き先さえもそれぞれ違うのだから、急ぐ理由など当然ない。
30年ぶりくらいに声を聞き、再会を楽しみにしながらそれが果たせなかったことにも悔いはない。
たぶん彼も同じ感覚だろう。
逝ってしまったことは悲しい反面、むしろ今は会わずに済んだことが幸いだった気もしているのだ。
顔を合わせ、昔話に興じ、そして今と未来を語り合った後だったとしたなら
おそらく私はこんなに冷静でいられなかったことだろうから。

昭和の同じ時代を生きた者たちの相次ぐ訃報を耳にする機会が多くなったのは
それだけ私も歳を取ってしまったことに他ならない。
けれど私は先を急がない。慌てることもない。
受け入れることだけが私にできることであり、この先をどう生きるかが彼らに対する答なのだ。
癌で亡くなった哲ちゃんを、不憫に思うこともない。
彼なりの一生を全うしたのだろうから、さぞや楽しい人生だったに違いない。
いずれ天国という場所で出会ったなら、そのことを問い質してみたいものだ。

人間は何年生きたではなく、一生の中で何を欲しがり何を出来たかだ。
何を持ち得たかなんて問題ではない。
そう念じながら、哲ちゃんとのことを思い出している夜である。
・・いささか酔ってしまった。



*画像は端山龍麿「Marolog」から引用。



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